とある発達障がい者が語る人生

発達障がいと自分の人生や思いについておもに綴っています。

発達障がいと幼少期

私はいじめの恰好の的になった。

小学校では、授業において行かれるのは日常茶飯事。

先生の指示が、一回で理解できずおろおろする。

机の引き出しの中は整理整頓できずぐちゃぐちゃ。

運動神経が悪くて、体育の時間や運動会では足を引っ張るのが当たり前。

私のせいで負けてごめんよ。

「言葉は話せるけれど、会話で変化球をぶん投げる」変人。

とどめは、小学校1年生の頃はトイレに行けずにおもらし常習犯だった。

小学校入学前にテレビでトイレに関する怖い話を見たせいだ。

恐怖故にトイレに行けず、我慢する→我慢できずに漏らすという

負のループを繰り返していた。

おかげで保健室のパンツのレンタル常連客だった。

いじめられないほうがおかしい。

 

そういったことが重なり、

私は常に、一人浮いた存在として生きることになる。

 

「二人組作って」「グループ作って」の指示は特に最悪だった。

NAOというスネカジリ

 

簡単な自己紹介をしてみよう。

 

私の最終学歴は、地元のちょっといい公立大学卒。

だが、正社員経験はゼロ。

現在の仕事はパート。時給は750円ほど。

毎月実家に2万入れながら、障がい者として働いている、

立派な底辺の親のスネカジリである。

 

ちなみに、自己破産経験まである、立派な社会の負債ともいうべき存在だ。

 

こんなことをいうと怒られそうだが、

どうしてこんなむちゃくちゃな人生になったのか、

私にもよくわかっていない。

ただ一つ言えるのは、

それでも必死に自分なりに生きようとした結果だったということだ。

先に言っておくと、ギャンブルやスロットにはまったわけではない。

おいおい、話の流れでそこについては語ろうと思う。

 

今の私を見て、せっかく大学まで行かせてもらったのに、

何て親不孝なやつだ。

なんて親は言う。

そういう思いを抱かれるのは当たり前だし、

お世話になっている以上頭が上がらないのも事実だが、

腹の底では私だってなりたくてこうなったわけじゃないわ、と思う。

いろいろ申し訳ないことをしたとは思うが。

 

とはいえ、「今の自分」に絶望しているかというと、

そうでもなく、

さまざまな修羅場を潜り抜けて私はようやく、

「今」にたどり着くことができたということにほっとしている。

 

アドラーは「トラウマ」の存在を否定する。

「過去」の存在を否定する。

過去の出来事ははただの過去であり、それ自体には何の意味もない。

それをその人自身が、どう解釈するかによって、

それはトラウマなどの形をとり、

その人の「ライフスタイル」-性格や人生観を、作っていくのだという。

かつての私も、「マイナスとして解釈した」己の過去にとらわれていたのである。

 

このブログで、私は私の過去を語る。

アドラーは好きだが、あえて私がここで過去を語る理由は、

自分が生きてきた軌跡を、私自身が許すためである。

 

ほっとしているとはいえ、私は未だに己がやったことへの

罪の意識や底辺意識を持っている。

そうじゃなく、私は私らしく生きたい。

だから、私は私の過去から今を、ハッピーな物語の流れとして

認識できるようになりたい。

…ハッピーエンドといわないのは、まだ二十代半ばだからだ。

エンドしちゃうには、まだ早すぎるのである。

旅の始まりとアドラー

「嫌われる勇気」

初版は2013年。岸見一郎氏と古賀史健氏が手がけ、

日本にアルフレッド・アドラーの名を広めることに一役買ったこの本を、

最近私は手にした。

 

哲学や心理学関係の本を読むのは、大学の時以来だったと思う。

家族との衝突や自身の障がいなど、

いろいろなことでストレスを抱えていた時に手に取ったのが、

「嫌われる勇気」だった。

 

この本は私の生き方にとても強い影響を与えた。

「自分が自分であること」

「そのために必要なコスト」

「自分が自分であることによって得られるもの」

を明確にしてくれたからだ。

 

昨今、不況や、社会情勢の不穏化などと共に、

ライフスタイルの見直しが盛んになり、

「我慢しすぎていませんか?」「自分に優しくしよう」と、

自分を見つめ直し、自分らしく生きることを推奨する本はたくさん出ているが、

この本ほど論理的に、明確にそれを説いているものは少ないと思う。

 

人は自分らしく生きることを恐れる。

なぜなら、社会が怖いから。

 

子どもならば受験、大人ならば労働。

私たちは恐れる。

もっと楽に生きたい、

自分らしく生きたいという本音を持っていながらも、

社会が押し付ける「社会にふさわしい人間」という型枠の前に口をつぐみ、

その枠に自分を押し込めようと、必死に頑張っている。

 

さながら、空気の少ない水槽の中の金魚のように、

少しでも酸素を求めて、必死に喘ぎながら。

 

頑張ることをやめれば沈む。

社会が用意した枠に、

自分を当てはめることができなければ、水槽の底に沈んでしまう。

 

水槽の底は濁った闇だ。混沌だ。

一度失敗して落ちてしまったら、容易には這い上がれぬ、底なしの闇。

だが、自分らしく生きるヒントとは―

我々が目を背ける、

社会という水槽の、その闇の底にこそ、眠っているのではないか?

 

私もまた、その闇の中に生きる住人の一人である。

私がいる層から見上げれば、そこはとてもまぶしい、きれいな世界だ。

かつて私には、

彼らが、私には届かぬ光に鱗をきらめかせ、

尾を優雅にひらめかせながら泳ぐ、錦鯉に見えた。

 

私は人生に失敗し、錦鯉にはなれなかった。

私は今も暗い水の底で、

自分の生き方と、

生きるために無くしてしまったもの、

捨ててしまったものを求めてさまよっている。

 

これは、私がアドラーなどの先人たちの教えを頼りに、

先の見えぬ水底を歩く記録である。

吾輩は猫である

じゃないや、私は発達障がい者である。

初めまして、NAOと申すものです。

広汎性発達障がいとADHD、強迫性障がいを持つ迷える人間です。

 

いろいろ紆余曲折ありつつ、山あり谷あり、

それでも生きてきた自分の人生を

 

振り返って気付きを得たり、

苦しかったものも肯定できるようになればと思って

このブログを始めました。

 

最近読んだ「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」の影響故、

時々アドラーの論を自分の人生に照らし合わせていることもありますが、

私はプロの哲学者でも何でもなく、

ただのアドラーが好きなだけの凡人です。

自己解釈等いろいろ入りますが、ガチではないので

あんまりぺちぺちはしないで生暖かく見守ってください。お願いします。

 

読んで笑うもよし、ドン引きするもよし。

私の目的のついでに、誰かが楽しんで行ってくれたら幸いです。