心の原風景
幼少期、そして小学生時代のこれらによって、
「出来そこないの自分にとって、
この世界は厳しく、苦痛に満ちたものである」
という、私の心の原風景は形作られた。
幽霊にとりつけという妄想が浮かんでは、
必死にそれを否定する。
墓参り神社にいけばその気がなくとも悪口が浮かび、
罰を与えられることを恐れ、必死に謝罪する。
私の強迫性障がいは悪化していった。
私にとってそれは、「自分が存在してもよいかを試す」ことだった。
わざと苦痛のさなかに自分を叩き込むことで、
それが許されるか試し続けていたのだ。
私だけの世界の中で。
何よりも私を許していなかったのは私だった。
特に、
神社にて悪口が浮かんでは必死に謝る症状は、
「神という曖昧ながら崇高な存在に
悪口を言うことで悪いことをし、それでも許されるか」
ということを試していたのだと思う。
激痛。激痛。激痛。
それは精神の自傷行為であり、
繰り返すたび、私の精神は摩耗していった。