とある発達障がい者が語る人生

発達障がいと自分の人生や思いについておもに綴っています。

2018-01-01から1年間の記事一覧

あたしはあたしになりたい、あたしでありたい

不思議と、欲しかったものがわかり、 それを自分で自分に与えるようになってから、 私の強迫観念と強迫行為の頻度は減ってきた。 もう何も試さなくていい。 もし強迫観念が浮かんでも、 「それもあたしだよ」 と自分を許している。 すると、何故かすっと不安…

ありがとう

これまで「私」と書いていたが、なんとなく「あたし」と書きたくなった。 普段の一人称(公的な場を除く)は「あたし」なのである。 あたしは今、自分の深いところ、魂でこれを書きたいと思っている。 世界があたしにとって、どうあるかは関係ない。 世界と…

とっくに許されている

自分が許されるかどうか、世界を試さなくていい。 もうとっくの昔に許されている。 少なくとも、私だけは私を許す。 欠点も何もかも、全部受け入れた上で。 自分自身を、歪めなくてもいいのだと。 何度も何度も小さなころの自分を思い出し、 彼らとの対話と…

「あたしは、あたしでいい」

私は今、自分がずっとずっとほしかったものを知っている。 私がほしかったもの。 それは、見守ってもらうことだった。 どんな時でも「NAOはNAOであればいいのよ」 と言ってもらえれば、それだけでよかったのだ。 例え人より劣っていても、 いじめられても、 …

心の原風景

幼少期、そして小学生時代のこれらによって、 「出来そこないの自分にとって、 この世界は厳しく、苦痛に満ちたものである」 という、私の心の原風景は形作られた。 幽霊にとりつけという妄想が浮かんでは、 必死にそれを否定する。 墓参り神社にいけばその…

そして強迫性障がいへ

苦痛と不安。 それから誰かが救出したときに感じる、 「私はここにいてよいのだ」という感覚。 それを私は無意識のうちに求め、繰り返してきた。 「苦痛」と「それから救ってくれる他人」の存在により、 自分を安定させていたのである。 強迫性障がいとは、 …

「いじめ」という環境への過剰適応

人は与えられた環境に適応しようとする力がある。 いじめられた私はますます「いい子」というライフスタイルを 生き残るために深めていく。 大人に守ってもらうことで、自分の居場所を確保するために、 いい子という形で環境に適応する。 それが歪んだ形あれ…

発達障がいと幼少期

私はいじめの恰好の的になった。 小学校では、授業において行かれるのは日常茶飯事。 先生の指示が、一回で理解できずおろおろする。 机の引き出しの中は整理整頓できずぐちゃぐちゃ。 運動神経が悪くて、体育の時間や運動会では足を引っ張るのが当たり前。 …

NAOというスネカジリ

簡単な自己紹介をしてみよう。 私の最終学歴は、地元のちょっといい公立大学卒。 だが、正社員経験はゼロ。 現在の仕事はパート。時給は750円ほど。 毎月実家に2万入れながら、障がい者として働いている、 立派な底辺の親のスネカジリである。 ちなみに、自…

旅の始まりとアドラー

「嫌われる勇気」 初版は2013年。岸見一郎氏と古賀史健氏が手がけ、 日本にアルフレッド・アドラーの名を広めることに一役買ったこの本を、 最近私は手にした。 哲学や心理学関係の本を読むのは、大学の時以来だったと思う。 家族との衝突や自身の障がいなど…

吾輩は猫である。 じゃないや、私は発達障がい者である。 初めまして、NAOと申すものです。 広汎性発達障がいとADHD、強迫性障がいを持つ迷える人間です。 いろいろ紆余曲折ありつつ、山あり谷あり、 それでも生きてきた自分の人生を 振り返って気付きを得た…