とある発達障がい者が語る人生

発達障がいと自分の人生や思いについておもに綴っています。

そして強迫性障がいへ

苦痛と不安。

それから誰かが救出したときに感じる、

「私はここにいてよいのだ」という感覚。

 

それを私は無意識のうちに求め、繰り返してきた。

「苦痛」と「それから救ってくれる他人」の存在により、

自分を安定させていたのである。

 

強迫性障がいとは、

自分でも些細だ、おかしいと思っている不安に

異常にとらわれてしまう障がいだ。

 

例えば、出かけようとして、玄関にカギをかけたか、など

心配になることは誰にでもあるだろう。

心配になっても、一回確認すれば満足する。

だが、それでも心配が止まらず、何度もカギを確認してしまうという人がいる。

 

この「カギをかけたか心配」という強迫観念と呼び、

それを打ち消すための「カギを確認する」行動を打ち消し行為という。

 

本人もおかしいと思っているのに止められない、

これらの過剰な繰り返しが日常生活に支障をもたらす病、

それが強迫性障がいだ。

 

私を診断した医者がいうには、

これは発達障がいの二次障がいとして併発してしまったものらしい。

 

ある時、誰かが幽霊に関する怖い話をしていた。

それがきっかけになり、私は幽霊に過剰に怯えるようになった。

 

多少おびえる程度なら問題ない。

ただ、私の怯え方は違った。

 

取りつかれたくない、怖い目にあいたくないと思っているのに、

 

何故か、

「幽霊よ、私にとりついてください!」

という思考が浮かんでくる。

 

あわてて、「嘘です、ごめんなさい取りつかないでください!」と

必死に心の中で謝る。

 

しかし、そのあとには「いいよやっぱりとりつけよ!」

「やめてくださいごめんなさい」

 

の繰り返しだ。

 

私は痛みがなくては不安だった。

本当は苦痛がない方がいいに決まっている。

しかし、当時の私は「痛みあってこその自分」だったのである。

 

だが、さすがに自分でもこの思考はおかしいと思っていたので、

いじめの時のように先生に言って助けてもらうということはできなかった。

 

頭がおかしいと思われるとわかっていたからだ。

 

いじめのように外部から齎される苦痛ではなく、

内側から生じる苦痛は誰かに助けてもらうことはできない。

 

それでも自分で自分を痛めつけることは止められず、

一日のうちに、私の心に不安を占める時間は増えていくことになる。