「いじめ」という環境への過剰適応
人は与えられた環境に適応しようとする力がある。
いじめられた私はますます「いい子」というライフスタイルを
生き残るために深めていく。
大人に守ってもらうことで、自分の居場所を確保するために、
いい子という形で環境に適応する。
それが歪んだ形あれ何であれ、それは生きていくための「適応」なのだ。
しかし、その「適応」のために、大事なものを失っていく。
私は「いい子」になった代わり、
自分の感情を感じる力が徐々に麻痺していった。
自分が何者かもわからなくなっていたのだが、
わからなくなっていることにすら気づかなかった。
過剰適応の結果、
私はいじめなどによって与えられる苦痛が「当たり前」になってしまった。
苦痛が与えられ、それを誰かに取り除いてもらうことこそが、
できそこないの自分が「そこにいていい」と許される証になっていたのだ。
苦痛あってこその自分になってしまい、
苦痛なしには安定した自己を保てなくなっていたのである。
そのうち、私は自分で痛みを見つけ、自分でそれを与えるようになる。
それはおそらく、私が20数年引きずっている強迫性障がいとリンクしている。